大阪地方裁判所 平成元年(ワ)4200号 判決 1993年3月24日
原告
中川陽二
原告
中川美智子
右二名訴訟代理人弁護士
在間秀和
同
井上英昭
被告
関西汽船株式会社
右代表者代表取締役
河野良三
右訴訟代理人弁護士
笛吹享三
同
熊谷尚之
同
高島照夫
同
中川泰夫
同
山﨑敏彦
右訴訟代理人弁護士熊谷尚之訴訟復代理人弁護士
村田治美
主文
一 被告は、原告各自に対し、それぞれ金五五七万〇二四二円及びこれに対する平成元年六月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを四分し、その三を原告の負担とし、その余は被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告各自に対し、それぞれ金二三六五万八九三九円及びこれに対する平成元年六月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者及び本件事故
(一) 被告は、肩書地に本店を置く船舶運行事業の海上運送事業、一般旅行業等を目的とする会社であり、事業の一環として、大阪港と別府港との間で大型カーフェリーを運航している。
(二) 訴外亡中川慎吾(以下「慎吾」という。)は、昭和四二年一一月二三日、原告中川陽二(以下「原告陽二」という。)と同中川美智子(以下「原告美智子」という。)との間の長男として出生したが、平成元年三月八日、被告が運航する別府港発大阪港行カーフェリー「さんふらわあ2」(以下「本件フェリー」という。)に乗船中、気管支喘息の発作を起こし、同月九日午前零時二五分ころ、本件フェリー内において、気管支喘息重積発作により死亡した(以下「本件事故」という。)。
2 本件事故の経緯
(一) 慎吾は、平成元年三月八日午後七時二〇分ころ、友人の訴外椢原宏隆(以下「椢原」という。)及び同安守佳子(以下「安守」という。)と別府港で本件フェリーに乗船した。乗船時、慎吾は咳をしていたが、他に体調の異常を窺わせる兆候がなかったため、本件フェリー事務長の訴外中道善晴(以下「中道」という。)には、慎吾が病人であることが分からなかった。本件フェリーは、午後七時三六分、予定より一六分遅れて別府港を出港した。
(二) 慎吾は、午後九時ころ、本件フェリー二階五一二号室(以下「本件船室」という。)の中で顔色が悪くなり、椢原に「酸素が欲しい。」と言った。椢原は、午後九時一〇分ころ、二階案内所へ行き、売店で酸素を売っているかどうか案内係に尋ねたところ、分からないという返答であったので、さらに、医務室のようなところに酸素はないかと尋ねたが、案内係は、船内に医務室がないと返答した。その際、中道が現れたことから、椢原は、中道と話し始めたところ、安守が走って来て慎吾が苦しんでいることを伝えたので、中道と一緒に本件船室に様子を見に行ったところ、慎吾は喘息の発作を起こし、四つんばいになって苦しんでいた。
(三) 中道は、午後九時一五分ころから、本件フェリーに医師又は看護婦が乗船しているかどうか確認するため、三回にわたり船内放送を行なったが、結局、本件フェリーには医療関係者が乗船していないことが判明し、また、本件フェリー備付の乗組員用及び乗客用の薬の中に喘息薬も酸素もないことが分かった。そこで、中道は、午後九時三〇分ころ、被告の松山代理店である訴外伊予商運株式会社(以下「伊予商運」という。)に電話を掛け、船内に喘息患者が発生したので、救急病院で処置を聞いて連絡するよう依頼した後、本件フェリー船長の訴外田中敬一(以下「田中」という。)がいる船橋に行き、田中に対し、船内で喘息患者が発生し、四つんばいになって苦しんでいると報告した。
(四) 中道が午後九時四〇分ころ本件船室に戻ると、慎吾は、船内放送を聞いて集まった乗客らに背中を支えられて足を前に投げ出して座り、肩で息をする状態であった。その際、自分も喘息持ちであるという夫婦連れの乗客が、持参の喘息薬を慎吾に飲ませようとしたが、慎吾は、歯を食いしばってよだれを流し、到底薬を飲ませられるような状態ではなかった。中道は、これを見て慎吾が極めて危険な状態にあると感じ、午後九時四〇分から午後一〇時ころの間、再び船橋に行き、田中に「大変ですよ。悪化していますよ。」と報告し、慎吾を陸上の病院に搬送するか、海上保安庁に巡視艇の派遣を要請して欲しいと頼んだところ、田中は、「分かった。」と返答した。しかし、田中は、そのころ、船橋に来た椢原に対しては、慎吾の搬送について「来島海峡で下ろす。今から二時間位かかる。松山に行くのも大して変わらない。松山は吃水が低く、風が強くて天候も悪いが海峡は風が少ない。」と説明した。
(五) 午後一〇時ないし一〇時一〇分ころ、田中が本件船室に慎吾の様子を見に来たところ、慎吾は、人に背中を支えられて足を前に投げ出す格好で床に座り、顔色が悪く目がとろっとした状態になっていた。そこで、田中が慎吾の脈及び瞳孔反応を調べたところ、脈が薄く、瞳孔反応も鈍く、素人判断でも危篤状態に陥っていたことから、田中は、慎吾を陸上の医療機関に早く見せなければならないと判断し、一等航海士と相談すると言って船橋に戻ったが、それから三〇分以上にわたって予定通りの航海を続け、海上保安庁に連絡を取らなかった。
(六) 田中は、午後一〇時四五分、本件フェリーが釣島海峡西口付近を航行しているころ、ようやく松山海上保安部に巡視艇の派遣を要請したが、同海上保安部が「巡視船の現場到着には約一時間かかるので、『さんふらわあ2』が松山に寄港して救急車で病院に輸送してはどうですか。」と回答すると、「一時間続行すれば今治の近くまで行くので、その時点で病状に変化がなければ、今治海上保安部にお願いする。」と答えて、松山港に向かおうとせず、また、松山海上保安部との間で、巡視艇と途中で会合して慎吾を移乗させる可能性などを相談することもなく、午後一〇時五〇分、今治海上保安部に対し、「船内に喘息の発作で苦しんでいる乗客がいる。約一時間強で今治港外に到着するので、病院輸送をお願いする。」と連絡して、今治港外で慎吾を巡視艇に移乗させることに決定した。
(七) 本件フェリーの乗組員らは、午後一〇時五〇分ころ、今治港での移乗が決定した後、慎吾にマウス・ツー・マウスの人工呼吸を開始し、翌三月九日午前零時ころ、巡視艇への移乗準備が始まるまでこれを継続した。本件フェリーは、同日午前零時三五分、待機していた今治海上保安部の巡視艇「いせなみ」に慎吾を移乗させたが、搬送された病院において、慎吾が既に気管支喘息重積発作により死亡していることが確認され、その死亡推定時刻は、同日午前零時二五分であった。
3 被告の責任
(一) 運送契約上の安全配慮義務
(1) 慎吾と被告は、平成元年三月八日、別府港から大阪港までの本件フェリーの乗船を目的とする運送契約を締結した(以下「本件運送契約」という。)。
本件フェリーは、午後七時二〇分に別府港を出港し、翌日午前六時五〇分に神戸港に一旦寄港した後、午前八時二〇分に大阪港に到着する予定の乗客定員一一四八名の大型船舶であり、別府港を出港してから神戸港に寄港するまでの一一時間三〇分は何処にも寄港せず海上を運航するため、乗客は、別府港から神戸港までの一一時間三〇分は、たとえ途中で下船の意思を生じたとしても下船することが不可能であり、その間、本件フェリー内にいわば「拘束」されることになる。
右事情によれば、本件フェリーの運航者である被告と乗客である慎吾は、本件運送契約に基づいて特別な社会的接触関係に入ったものということができる。
(2) 被告は、本件運送契約に基づき、本件フェリーを運航する旅客運送人として、乗客を安全に目的地まで運送するという本来の契約上の義務に付随して、信義則上、乗客の生命・身体等の安全を確保するよう配慮すべき義務として、乗客の突発的な事故や急病の発生に備えた対策を講じて置く義務を負っている。
また、被告は、「事故処理基準」という非常時用マニュアルを作成し、第九条で「船長及び運航管理者は、船内に医療救護を必要とする事態が発生した時は、乗船者に医者がいる場合はその医師の協力を要請することとし、不在の場合は別表『医療機関連絡表』により最寄りの医師と連絡をとり、その指示のもとに適切な措置を講じなければならない。」と規定しているが、これは、被告が乗客に対して負うべき安全配慮義務の内容を具体化したものである。
(3) これによれば、被告は、本件運航契約に付随する具体的な安全配慮義務として、本件フェリー航行中に船内で傷病者が発生した場合に備え、①急病一般に対応しうる何らかの酸素供給のための医薬品あるいは医療機器を備えておくべき義務があり、また、傷病者が発生した場合に、②右傷病者を出来る限り早急に陸上に搬送する義務、③船内において右傷病者が陸上からの十分な医療措置を受けられるよう対処する義務を負っていた。
(二) 被告の義務違反
(1) 気管支喘息の発作に対する応急医療措置としては酸素吸入が有効であり、これが慎吾に施されていれば同人が死に至ることはなかったところ、本件フェリーには右酸素供給のための医薬品、医療機器等は備え付けられていなかった。したがって、被告には右医薬品等備付義務の違反があった。
(2) 本件フェリーは、午後九時一〇分、北緯三三度30.4分、東経一三一度59.0分、佐田岬灯台から三五〇度、一万八五〇〇メートルの位置を航海中であり、最寄りの港は松山港であった。
中道は、午後九時一〇分ころ、慎吾が喘息の発作で苦しんでおり、容態が相当悪いことを認識し、また、船内放送の結果、船内では医師の協力が得られないことを確認していたものであるから、右時点において、「事故処理基準」別表「医療機関連絡表」の松山市の欄に記載されている松山済生会病院又は城西病院と連絡を取り、その指示のもとに慎吾に対して適切な措置を講ずるべき義務があった。
しかし、中道は、午後九時三〇分ころ、伊予商運に電話して救急病院に連絡を取るよう依頼しただけで、他の乗客の「喘息で死ぬことはない。」「何時と何時にもう一度発作が起こる。それさえ過ぎれば大丈夫だから。」などの素人判断を軽信し、自ら積極的に陸上医療機関に連絡してその指示を仰いだり、伊予商運に再度連絡を取って救急病院への連絡の結果を確かめたりしなかったから、前記義務に違反したものである。
仮に、午後九時一〇分時点において、中道が前記医療機関に連絡を取り、医師による的確な指示を受けていたならば、中道らは、慎吾の病状が船内において対応することが困難であると知りえたものであるから、直ちに最寄りの海上保安部に連絡を取り、慎吾を一刻も早く陸上に搬送して医療機関による救護を受ける体勢を取ることが可能であり、また、搬送までの間、船内で取るべき措置について的確な情報を得ることも可能であった。
(3) 本件フェリーは、午後九時三〇分、北緯三三度35.1分、東経一三二度07.3分、八島平根崎灯台から一八六度一万四〇〇〇メートルの位置を航行中であった。
田中は、午後九時三〇分ころ、中道の報告により、慎吾が喘息の発作を起こして苦しんでいること、及び、船内に医師がいないことを認識していたものであるから、右時点において、本件フェリーの最高責任者として、事務長である中道に対し、直ちに、前記「医療機関連絡表」記載の陸上医療機関に連絡して、指示を仰ぐよう指示するべき義務があった。
しかし、田中は、一旦中道に医師に連絡を取るよう指示したものの、中道の「既に連絡は取った。」という返答を聞いただけでこれを放置し、中道に対して、それ以上「医療機関連絡表」に従って陸上の医療機関に連絡するよう指示したり、中道の連絡の結果を確かめたりしなかったもので、前記義務に違反したものである。
もし、午後九時三〇分時点において、田中が中道に対して前記医療機関に連絡を取るよう指示していたならば、同人らは、慎吾の病状が船内において対応することが困難であると知りえたものであるから、最寄りの海上保安部に連絡を取り、慎吾を一刻も早く陸上に搬送して医療機関による救護を受ける体勢を取ることが可能であり、また、搬送までの間、船内でどのような措置を取れば良いかについて的確な情報を得ることも可能であった。
(4) 本件フェリーは、午後一〇時一〇分、北緯三三度43.1分、東経一三二度21.6分、小水無瀬島灯台から二〇八度、六〇九〇メートルの位置を航行中で、松山港から約三四キロメートルの位置にあったから、当時の巡航速度二一ノット(時速約38.85キロメートル)で航行すれば、約五二分で松山港外に到着することが可能であった。
田中は、午後九時四〇分ころから午後一〇時ころ、中道から、慎吾の病状が悪化したので海上保安庁に巡視艇の出動を要請してほしいと頼まれており、午後一〇時一〇分ころには慎吾が素人目にも危篤状態にあると認識していたものであるから、遅くとも午後一〇時一〇分の時点においては、松山海上保安部に巡視艇の派遣を要請するとともに、医療機関に連絡を取っておくなど、慎吾を陸上に搬送するため適切な措置を講ずるべき義務があった。
しかし、田中は、松山港に寄港した場合には予定航路を外れることから、当初から松山港への寄港を全く考慮せず、予定航路上にある今治港で慎吾を巡視艇に移乗させるべく判断し、午後一〇時一〇分から午後一〇時四五分までの間、漫然と三〇分以上も予定航路上の航行を続け、午後一〇時四五分になるまで、松山海上保安部に連絡して巡視艇の出動を要請したり、松山港沖の天候を問い合わせたりしなかったものであるから、前記義務に違反した。
仮に、午後一〇時一〇分の時点において、田中が松山海上保安部に巡視艇の派遣を要請して松山港に向かい、かつ、医療機関への連絡を取っていた場合には、当時の松山市付近の天候及び風の下における巡視艇への移乗時間約五分を考慮しても、慎吾は、午後一一時前後には、松山港埠頭で救急車に移乗し、酸素吸入等の医療措置を受けることにより一命を取り留めることが可能であったから、前記義務違反と慎吾の死亡の間には相当因果関係がある。
(5) 本件フェリーは、午後一〇時四〇分、北緯三三度48.9分、東経一三二度31.8分、由利島灯台から一八八度、三一〇〇メートルの位置を航行中で、松山港外から約一五キロメートルの位置にあったから、当時の巡航速度二一ノットで航行すれば、約二三分余で松山港外に到着することが可能であった。
田中は、午後一〇時四五分ころには、既に慎吾が危篤状態に陥っていることを認識し、本件フェリーが当時の位置から約二三分で松山港に到達できることを知っていたものであるから、松山海上保安部が松山寄港を勧めた段階において、右回答に応じて航路を変更して松山港外に寄港することを決断するか、同海上保安部との間で、巡視艇と本件フェリーが途中で会合して慎吾を移乗させる可能性について相談すべき義務があった。
しかし、田中は、午後一〇時四五分、同海上保安部に松山寄港を勧められた際にこれに従わず、また、同海上保安部との間で、巡視艇と本件フェリーが途中で会合する可能性について全く相談することもなく、当初の予定通り今治港へ寄港することにしたもので、前記義務に違反したものである。
仮に、午後一〇時四五分の時点において、田中が松山寄港を決断した場合には、巡視艇への移乗時間、松山港までの巡視艇の航行時間及び救急車への移乗時間を考慮しても、慎吾は、午後一一時三五分ころには、松山港埠頭で救急車に移乗し、酸素吸入等の救急医療措置を受けて一命をとりとめることが可能であったから、前記義務違反と慎吾の死亡の間には相当因果関係がある。
(6) 被告は海運業者であるから、社団法人日本水難救援会が昭和六〇年一〇月一日から海上保安庁と協力して「洋上救急体制」を開始していたことを当然認識しており、本件事故に当たり、これを利用する義務があった。右システムは、洋上での緊急事態に対処するため、二四時間体制でヘリコプターによる医師、看護婦の洋上往診を含む救急体制を取るものであり、この制度による措置を求める場合は、当該船舶から最寄りの海上保安庁に連絡すれば直ちに実現可能であった。
しかし、中道及び田中は、右制度を利用することを全く考えず、原告美智子が午後一〇時ころ電話でヘリコプターの出動を要請したのに対し、そのようなことはできないと答えるのみで、これを一蹴した。
(三) これによれば、被告は、原告に対し、本件運送契約の付随義務たる安全配慮義務違反又は不法行為(民法七〇九条、七一五条)に基づき、原告が本件事故により被った損害を賠償すべき責任を負う。
4 損害
(一) 慎吾の逸失利益
金二五三一万七八七七円
慎吾は、本件事故当時二一歳の男子で、大学を中退した直後であったが、その後就労することが予定されていた。同人の年令に対応する賃金センサス第一巻第一表産業計学歴計の年令階層別平均給与額に、その就労可能年数四六年に対応する新ホフマン係数23.534を乗じ、同人の生活費控除の割合を五〇パーセントとすると、本件事故当時の慎吾の逸失利益は二五三一万七八七七円となる。
(二) 慰謝料 金二〇〇〇万円
慎吾は、二一歳の前途ある青年であり、原告らの長男として、原告ら両名の大きな支えであった。慎吾自身の慰謝料と原告らの父母としての慰謝料は、少なくとも二〇〇〇万円(原告一人当り一〇〇〇万円)を下らない。
(三) 弁護士費用
各自金一〇〇万円
5 原告らは、右慎吾の死亡により、同人の被告に対する損害賠償債権をそれぞれ二分の一ずつ相続した。
6 よって、原告らは、被告に対し、第一次的に債務不履行、第二次的に不法行為に基づく損害賠償として、各自金二三六五万八九三九円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成元年六月四日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2の事実について
(一) 同(一)は認める。
ただし、慎吾は、昭和六一年ころから年間一〇回余りの喘息発作を繰り返し、昭和六三年一二月二九日からは極めて頻繁に著名、重積の喘息発作を繰り返していた慢性喘息患者であり、本件フェリー乗船当時は、噴霧式吸入薬ベロテックエアゾルの限度を超えた頻繁な使用によって喘息症状の発症を押えていたため、乗船手続の際に応対した中道には、慎吾が病人であることが分からなかったものである。
(二) 同(二)及び(三)の事実経過は認める。
(三) 同(四)のうち、中道が午後九時四〇分ころ本件船室に戻ったこと、慎吾が周囲の人に身体を支えられて足を投げ出して座り、肩で息をしていたこと、夫婦連れの乗客が慎吾に喘息薬を飲ませようとしたが、到底飲ませられる状態ではなかったこと、中道が再び船橋へ行き、田中に対し、慎吾の病状経過を報告するとともに、慎吾を陸上の病院に搬送するべく海上保安庁に巡視艇の出動を要請してほしいと頼んだことは認め、その余の事実は否認する。
田中が椢原に対して慎吾を来島海峡で降ろすと説明したのは、田中が松山港外での移乗を断念し、来島海峡を越えた海域で今治海上保安部の巡視艇に移乗させることに決定した午後一〇時五〇分以降であり、午後九時四〇分ころではない。
(四) 同(五)の事実経過は認める。
(五) 同(六)の事実経過のうち、田中が松山海上保安部に巡視艇派遣要請をしたのが午後一〇時四五分であったこと、松山海上保安部が田中の要請に対し、巡視艇の現場到着までに約一時間かかると回答したこと、乗組員らが慎吾にマウス・ツー・マウスの人工呼吸を開始したのが午後一〇時五〇分以降であったことは否認し、その余は認める。
田中が松山海上保安部に巡視艇の出動要請をしたのは午後一〇時四〇分であり、その際、松山海上保安部は、まず「君とこは関西汽船だったら松山観光港へ着けたらええやないか。」と回答し、田中が「本船はいつも着けておる関西汽船の船やなくて一万二〇〇〇トンある船でとても松山観光港には着けられないのです。」と説明したのに対し、「お前とこ通船でも海上タクシーでも雇ったらどうや。」という誠意のない回答をしたうえで、出動に一時間かかると答えたものであり、決して現場到着までに一時間かかると答えたものではない。
また、本件フェリー船客部の乗務員らは、午後九時四〇分ころ、大学生風の五人連れの乗客から「大学の先生に尋ねたところ、胸部圧迫とマウス・ツー・マウスの人工呼吸をするようにと言われた。」という指示を受け、そのころから平成元年三月九日午前〇時ころ巡視艇への移乗作業に着手するまで、慎吾にマウス・ツー・マウスの人工呼吸を継続して行なっていた。
(六) 同(七)の事実経過は認める。
3 同3について
(一) 同(一)について
(1) 同(1)のうち、慎吾と被告が平成元年三月八日本件運送契約を締結したこと、本件フェリーは別府港を出港してから神戸港に寄港するまでの一一時間三〇分の間どこにも寄港しないことは認め、その余は争う。
本件フェリーは、乗客となる者として約一〇時間の航行に耐えられる程度に健康な人物を想定しており、運送約款にも、「年齢、健康上その他の理由によって生命が危険にさらされ、又は健康が著しく損なわれるおそれのあるものに対しては、運送契約の申込を拒絶し、乗客を拒否することができる。」と規定されている。
慎吾は、昭和六一年ころ気管支喘息に罹患し、重積発作による入院歴もあり、本件事故の四日前の平成元年三月四日にも掛り付けの近藤病院で治療を受けていたほど重症の慢性気管支喘息患者であり、本件フェリーに乗船したのは、当時在学していた日本文理大学(大分県所在)を中退して神戸に帰郷するためであった。
このように、大学を中途退学するほどの慢性疾病を抱えながら、長時間にわたり途中寄港することなく航行する本件フェリーに乗船するに当たっては、自己の健康状態に留意し、万一、喘息発作が発症した場合にも、これに対応できるだけの薬品等を所持して乗船するべきところ、当時、慎吾は、四日前に近藤病院で貰ったばかりのベロテックエアゾルを使い果たし、他に薬品等を所持せずに漫然と本件フェリーに乗船した結果、船内で気管支喘息重積発作を起こしたものであるから、突発的な急病人というよりむしろ容態の急変というべきであり、その死亡の責任は、専ら慎吾個人に帰せられるべきである。
(2) 同(2)のうち、被告が「自己処理基準」という非常時用マニュアルを作成していること、その第九条に原告主張の規定があることは認め、その余は争う。
(3) 同(3)は争う。
(二) 同(二)について
(1) 同(1)のうち、本件フェリーに酸素吸入のための医薬品、医療機器が備え付けられていなかったことは認めるが、その余は争う。
本件フェリーは法律上備付けが義務づけられている治療器具及び医薬品は備え付けられているところ、酸素供給装置等は右法律上の備付け治療器具等に含まれていない。のみならず、気管支喘息重積発作に対する応急措置として酸素供給が必要であること等は極めて専門的な医学知識であるばかりか、酸素供給装置などは総合病院、救急病院などの大病院でない限り備え置いていない専門的な医療器具であり、本件フェリーにそのような医療器具の備付け義務はない。
(2) 同(2)のうち、午後九時一〇分における本件フェリーの位置は認め、その余は争う。
中道は、午後九時三〇分ころ、被告の運航管理補助者である伊予商運を通じて、当日の救急病院である国立病院四国がんセンターに対し、船内で喘息患者が発生した場合の措置を問い合わせたものである。
また、中道は、午後一〇時ころ、本件フェリーに架かってきた電話により、医師(氏名は不明であるが、慎吾の掛り付けの近藤病院の医師であると考えられる。)との間で喘息の処置方法につき検討したが、右時点において、同医師が指示した処置方法のうち船内で取りうる処置は、マウス・ツー・マウスの人工呼吸を含めて全部取っていたものである。
これらは、自ら積極的に陸上医療機関の指示を仰ぎ、医師の指示に添った処置を取ったものといいうるから、中道にはこの点につき義務違反はない。
(3) 同(3)のうち、午後九時三〇分における本件フェリーの位置は認め、その余は争う。
慎吾は、午後九時三〇分ころ、椢原に「肩で息をしているのが落着いたら大丈夫。」と説明しており、そのころ、持参の喘息薬を提供した夫婦連れの乗客も「喘息で死ぬことはない。」と述べていたのであるから、中道が一回目の報告をした午後九時三〇分時点では、中道も田中も、未だ慎吾の病状が悪いとまでは認識していなかった。
(4) 同(4)のうち、午後一〇時一〇分における本件フェリーの位置及び本件フェリーの巡航速度が二一ノットであることは認め、その余は争う。
イ 田中が午後一〇時四〇分まで巡視艇の出動を要請しなかったことには、次のとおり合理的な理由があり、その間、田中は、本件フェリーの船長として、慎吾を陸上に搬送するため必要不可欠な検討をしていたものであるから、この点について義務違反はない。
a 田中は、午後一〇時一〇分ころ、慎吾の容態を見て病状が重いと判断し、稲毛、車谷両一等航海士と海上保安庁への出動要請について検討を開始したが、その直後、中道が原告美智子の電話を田中に取り次いだため、約一〇分間、同原告との応対に忙殺され、その間、寄港地に関する検討は中断された。
b 田中及び両一等航海士は、午後一〇時二〇分ころ、まず松山観光港又は三津浜外港埠頭への着岸を検討したが、前者は岸壁付近の水深が6.0メートルから6.4メートルと浅いため、吃水6.7メートルの本件フェリーの接岸が不可能であり、後者は緊急入港の手続、港内・岸壁の状況、着岸時の作業要員の手配の可能性等が不明で水先案内人の派遣を要請しなければならず、その際、タグボートやランチの手配等に約一時間を要するため時間がかかり過ぎるという結論に達した。
次に、田中及び両一等航海士は、松山港外検疫錨地での巡視艇への移乗について検討したが、その際、伊予灘ナンバー1ブイにおける午後八時五一分の風が風力五、(風速毎秒八メートルから10.7メートル、白波がたくさん現れしぶきが立ち上がる状態)、波高二メートルの強風であり、田中の経験上、松山港外の風は午後一〇時ころ最強となることから、午後一〇時ころ、松山港外には風力五程度の強風が吹いているものと判断した(また、当日午後九時ころまで松山港外輿居島付近の指定錨地に停泊し、午後一〇時一五分松山港を出港して小倉港に向かった「フェリーくるしま」の航海日誌によれば、松山観光港付近の午後八時の風は風力四であり、同船出港後一時間四五分を経過した午前〇時ころの風力が四であるから、午後一〇時ころには、松山港外には風力五程度の強風が吹いていたと推定され、田中の判断が正しいことが裏付けられる。)。
風力五、波高二メートルの強風下で巡視艇への移乗を敢行するには、両船の甲板に高低差があるため、本件フェリーの乗用車用乗降ランプから巡視艇の甲板に慎吾を降ろすほか適切な方法がなく、この方法は、慎吾及び乗組員の転落の危険性を伴うものであるが、田中は、転落時の救助策を検討し、両一等航海士を説得したうえで、午後一〇時三〇分ころ松山港外での巡視艇への移乗を決断し、午後一〇時四〇分、松山海上保安部に巡視艇の出動要請をした。
ロ 仮に、田中が午後一〇時一〇分から陸上への搬送を検討した場合であっても、次の事情によれば、慎吾が命を取り留めることは不可能であったから、田中が午後一〇時一〇分時点において松山海上保安部と連絡を取らなかったことと慎吾の死亡との間には因果関係がない。
a 慎吾が命を取り留めるためには、当時の病状から判断して、午後一一時三〇分ころまでに救急医療による措置を受ける必要があった。
b 前記イbのとおり、松山港外には午後一〇時ころ風力五の強風が吹いていたものと推定されるが、このような気象・海象の状況から見て、田中が松山港外での慎吾の移乗を決断するには最低でも約一五分を要するため、本件フェリーが松山港方面に向かい始めるのは、早くとも午後一〇時二五分となる。
c 本件フェリーのような大型船舶が停船するためには、停泊予定地点から大略二海里離れた地点より機関をスタンバイエンジンにセットし、全速から半速、極微速、停止、後退と機関を種々使用しながら零になるまで速度を落とした後、投錨して船体と海底とを固定しなければならないため、最後の二海里を航行するため常に約一四分を必要とする。
このため、本件フェリーが午後一〇時二五分の位置から松山港外検疫錨地までの一三海里を航行するために必要な時間は、始めの一一海里は二一ノットで航行するため三一分、後の二海里は前記のとおり一四分となることから計四五分となり、これによれば、本件フェリーがスタンバイエンジンにセットし、全速から半速、極微速、停止、後退と機関を種々使用しながら零になるまで速度を落とした後、投錨して船体と海底とを固定しなければならないため、最後の二海里を航行するため常に約一四分を必要とする。
このため、本件フェリーが午後一〇時二五分の位置から松山港外検疫錨地までの一三海里を航行するために必要な時間は、始めの一一海里は二一ノットで航行するため三一分、後の二海里は前記のとおり一四分となることから計四五分となり、これによれば、本件フェリーが松山港外検疫錨地に停泊しうる時刻は午後一一時一〇分となる。
d 松山海上保安部の巡視艇が現場に到着するまでには、原告の主張を前提としたとしても一時間を要するから、田中が午後一〇時二五分に巡視艇を要請した場合、本件フェリーが松山港外検疫錨地で巡視艇と会合できるのは午後一一時二五分となる。
e 風力五、波高二メートルの強風波浪下で移乗を敢行するためには、本件フェリーの乗用車ランプ先端部分を巡視艇の先取又は防護鎖、支柱を倒した舷側部分の位置を一致させねばならないうえ、大型船舶と小型の巡視艇のローリング(横揺れ)の周期が異なることから、船上の作業に慣れた海上保安庁職員及び本件フェリー乗組員によっても約二〇分を必要とし、移乗作業が完了するのは午後一一時四五分である。
f 巡視艇が検疫錨地から松山港に寄港するまでには約二〇分を要するため、慎吾が松山港埠頭に到着するのは最短でも平成元年三月九日午前〇時五分となり、これに岸壁から救急病院への輸送にかかる時間が二五分であることを考慮すると、慎吾が救急病院で医療を受けられるのは最短でも同日午前〇時三〇分になり、右時点では、慎吾が救命される可能性が全くなかった。
(5) 同(5)のうち、午後一〇時四〇分における本件フェリーの位置及び本件フェリーの巡航速度は認め、その余は争う。
田中が松山海上保安部に巡視艇の出動要請をした午後一〇時四〇分から松山港外検疫錨地に向かった場合、本件フェリーは、検疫錨地から二海里の地点まで航行するために一六分、錨地までの残り二海里を航行するために一四分を要し、午後一一時一〇分に検疫錨地に到着することになるが、巡視艇が検疫錨地に到着するのは、前記(4)のとおり、出動要請から一時間後の午後一一時四〇分であり、これに、移乗作業に要する時間二〇分、検疫錨地から松山港への巡視艇の航行時間二〇分、慎吾を松山港から救急病院へ搬送する時間二五分を加算すると、慎吾が陸上の医療機関で救急措置を受けられる時間は、最短でも午前〇時四五分になり、この時点では慎吾が救命される可能性は全くなかった。
したがって、田中が松山海上保安部の回答に応じて松山港外検疫錨地に向かった場合であっても、慎吾が一命を取り留めることは不可能であるから、田中が午後一〇時四〇分時点で松山海上保安部の回答に応じて松山港外検疫錨地に向かわなかったことと慎吾の死亡との間に相当因果関係がない。
(6) (6)は争う。
日本水難救済会の洋上救急体制は、本来、沿岸海域の船舶上の傷病者を対象とせず、巡視艇による病人の移乗が不可能ないし極めて困難な場合のほかは沿岸海域では行なわれないものであり、瀬戸内海においては、巡視艇による傷病者の移乗、陸上の医療機関への搬送が行なわれているため、実施実績は全くない。
また、ヘリコプター出動による傷病者の搬送救助活動の所要時間は最低二時間三〇分であり、夜間作業に伴う視野の狭さ、強風時のホバリングの困難性から見ても、夜間のヘリコプターによる病人の吊り上げ揚収作業は実行不可能である。
(三) 同(三)は争う。
前述のとおり、本件事故につき被告が責任を問われるいわれはなく、本件事故はひとえに慎吾の持病に対する油断、不摂生、不健全な生活態度が招いた悲劇というほかない。
4 同4は争う。
5 同5は争う。
第三 証拠<省略>
理由
一請求原因一の事実は当事者間に争いがない。
二本件事故の経緯について
<書証番号略>、証人椢原、同田中、同中道及び同近藤繁俊の各証言(椢原、田中及び中道の各証言のうち、後記認定に反する部分を除く。)並びに原告中川美智子本人尋問の結果に前記争いのない事実を総合すると、以下の事実が認められる。
1 慎吾(昭和四二年一一月二三日生)は、昭和六一年四月、大分県の日本文理大学に入学したが、同年秋ころ気管支喘息に罹患し、昭和六三年一〇月ころから大分市の岡病院及び尼崎市の近藤病院に通院するようになり、平成元年一月二六日から三〇日まで気管支喘息重積発作のため岡病院に入院した。慎吾は、大学を三年生で中退することに決め、同年二月下旬、引越の準備のため一旦尼崎市の実家に帰ったが、呼吸困難、起座呼吸(横たわることが苦しく、膝を抱えて座る姿勢を取る状態)、咳、痰などの症状を伴う発作を起こし、同年三月四日、近藤病院において、副腎皮質ホルモンの点滴などの治療と気管支拡張剤ベロテックエアゾル一本などの一週間分の投薬を受けた。同月七日、慎吾は、下宿を引き払うため、椢原及び安守を小型トラックに同乗させ、フェリーで神戸港から大分港に向かった。慎吾は、フェリーの中でも咳をしていたが、その際、ベロテックエアゾルを常用して咳を押さえていた。
2 慎吾らは、同月八日の朝大分港に到着し、慎吾の下宿へ行って引越をしたが、慎吾は、作業の後半少し咳込んでベロテックエアゾルを使用していた。慎吾らは、午後三時ころから慎吾の運転する小型トラックで別府港に向かったが、慎吾は、その途中にも咳込み、ベロテックエアゾルを使用していた。慎吾らは、午後六時ころ別府港に到着し、午後七時二〇分本件フェリーに乗船した。
慎吾は、乗船直後から、本件船室の窓際の棚に腰掛けて咳き込んでおり、椢原と安守が夕食に誘っても断ったため、同人らは、午後八時三〇分ころ慎吾を残して食堂へ出かけた。午後九時ころ、食事を終えた同人らが本件船室に戻ったところ、慎吾は、同じ場所に腰掛けており、もう咳をしてはいなかったが、顔色が非常に悪くなっていたので、心配した椢原が「何か買うてきたろか。」と声をかけたところ、「酸素が欲しい。」と答えた。
3 椢原は、午後九時ころ、本件フェリー二階の案内所に行き、売店で携帯酸素を売っているかどうか尋ねたが、案内係が分からないと返答したため、「医務室のようなところに酸素がありませんか。」と尋ねたところ、案内係は、本件フェリーには医務室がないと返答して、事務室にいた中道を呼んだ。中道は、まず椢原に酸素が必要な理由を尋ねたところ、椢原が「友達が喘息なので、携帯酸素の吸入器か薬がありませんか。」と申し出たので、船客用及び乗務員用の薬を探したが喘息薬はなかった。中道は、なぜ乗船前に報告しなかったのかと椢原を詰問し、椢原が「こんなに悪くなるんだったら陸路で帰った。」と答えていると、安守が走って来て「中川君が苦しんでいる。」と伝えたので、中道と椢原が本件船室に様子を見に行ったところ、慎吾は、顔面蒼白な状態で、床の上に四つんばいになって苦しんでおり、椢原が「薬は?」と尋ねると、「薬なくなった。」とだけ答えた。
4 中道は、午後九時一〇分、本件フェリーの乗客に向けて、「お客様にお尋ねいたします。只今船内で急病人が発生しましたので、お客様の中でお医者さんか看護婦さん、又は医療に心得のある方、ご乗船でございましたら、二階中央にございます案内所の方までご連絡下さい。」と船内放送で呼びかけたが、これに答えて名乗り出る乗客はいなかった。中道は、午後九時一五分、同じ放送を繰り返し、午後九時二〇分、さらに喘息という病名を入れて放送し、午後九時三〇分、喘息の薬を持っている乗客がいれば案内所に連絡して欲しいと放送したが、結局、医師又は看護婦は現われなかった。
本件フェリーは、午後九時三〇分、北緯三三度35.1分、東経一三二度07.3分、八島平根崎灯台から一八六度、一万四〇〇〇メートルの地点(別紙図面①地点)を航行中であり、一番近い港は松山港であったことから、中道は、午後九時三〇分ころ、松山における被告の運航管理補助者の伊予商運に電話を掛け、船内で喘息の発作を起こした乗客がいるので救急病院で処置を聞いて連絡して欲しいと依頼したが、その際、慎吾の具体的な病状や慎吾が薬を使い果たしていることなどについては説明しなかった。中道は、伊予商運への連絡の後、船橋へ行き、田中に対し、船内で喘息患者が発生したと報告した。田中は、これを聞いて陸上の医療機関に連絡するように指示したが、中道が既に伊予商運を通じて連絡を取ったと返答したので、それ以上の指示をしなかった。
伊予商運は、当日の救急病院である国立病院四国がんセンターに電話を掛けて喘息の処置方法を尋ねたが、中道から慎吾の具体的な病状を聞いていなかったため十分な説明ができず、そのため、がんセンター側も、婦長が応対して「喘息の患者ならば薬を持っているでしょうからそれを飲ませなさい。」と答えるに止まった。
5 他方、椢原は、午後九時一五分ころ原告陽二宅に電話して、慎吾が船内で喘息の発作を起こしたと伝え、同原告から連絡を受けた長女が外出中の原告美智子にこれを報告した。原告美智子は、午後九時三〇分ころ本件フェリーに電話を掛けたが、その際、中道から、本件フェリーには医師及び看護婦が乗船していないこと、酸素吸入器も喘息薬も積載していないことを聞き、ヘリコプターで医師を連れてきてもらうか、自衛隊の出動を要請して慎吾を病院に搬送できないかと尋ねたが、いずれも中道に断わられた。そこで、同原告は、「お医者さんに聞いて私から連絡します。」と言って電話を切り、原告陽二に電話を掛けて、近藤病院に船に電話を入れるよう頼んで欲しいと言い、午後一〇時ころ、椢原に「近藤病院の先生に電話連絡してもらうよう船舶電話の番号を教えた。」と伝えた。
6 船内放送の後、本件船室には放送を聞いて多数の乗客が集まっていたが、午後九時三三分ころ、その中の夫婦連れの乗客が持参していた喘息薬を提供すると申し出たので、椢原が一緒に乗用車甲板まで薬を取りに行ったところ、右乗客は、「そんなに慌てなくても喘息で死ぬことはないから大丈夫だよ。」と言った。午後九時四〇分ころ、中道が船橋から本件船室に戻ったところ、慎吾は、前屈みの姿勢になり、回りの乗客や乗務員に上体を支えられながら床の上に両足を投げ出して座り、両肩を大きく上下させるようにして呼吸していた。その際、夫婦連れの乗客が慎吾に錠剤を飲ませようとしたが、慎吾は、歯を食いしばってよだれを流し、到底薬を飲ませられる状態ではなかったため、右乗客は薬を引き取って自室に帰った。
中道は、これを見て危機感を感じ、午後九時四〇分ころ、再び船橋に行き、田中に「大変ですよ。悪化していますよ。」と報告するとともに、「キャプテン、早く病院の依頼をお願いします。海上保安部の方に依頼をして下さい。巡視艇で早く病院の方に行ったらいいんじゃないですか。」と言って海上保安庁への連絡を要請したところ、田中は「わかった、検討する。」と返答した。
7 中道は、午後一〇時ころ、「喘息の件ですが。」と言って本件フェリーに掛ってきた電話に応対したが、その際、相手が専門用語を使用していたため、医師からの電話であると思い込み、相手の名前や職業を聞かなかった。電話の相手は、まず吸入器及び薬の名前を二、三種類挙げたが、中道は「薬はありません。」と返答して指示を記録せず、次に、リクライニングみたいな椅子に身体を持たれ掛けさせるのが良いという指示があると、「もうやっています。」と答えた。しかし、中道は、慎吾の容態について、相手に「喘息で苦しんでいる。」とだけ説明し、慎吾が午後九時四〇分ころ肩で息をしていたことや、薬を飲ませようとしても歯を食いしばって飲まなかったこと、顔色、唇や爪の色、咳をしているかどうかなどについては全く説明しなかった。
8 午後一〇時ころ、中道が本件船室に戻ったところ、慎吾はぐったりした様子で唇が紫色になり、脈があるようにも見えなかったので、付添っていた乗務員に容態を尋ねると、右乗務員は、脈が落ちていると説明した。午後一〇時ころから午後一〇時一〇分ころ、田中は、本件船室に様子を見に来たが、その際、慎吾の顔色が悪く目がとろっとしているように見えたので、所携の懐中電灯で瞳孔反応を調べたところ反応が鈍く、脈も弱かったことから、素人目から見ても危篤状態にあると感じ、「航海士と相談する。」と言って船橋に戻った。その後、乗務員らは、五人連れの大学風の乗客から、心臓の鼓動に合わせて五回胸部を圧迫し、一回マウス・ツー・マウスの人工呼吸をすると良いと指示され、慎吾に対し、マウス・ツー・マウスの人工呼吸及び胸骨の圧迫を開始した。
9 本件フェリーは、午後一〇時一〇分、北緯三三度43.1分、東経一三二度21.6分、小水無瀬島灯台から二〇八度、六〇九〇メートルの位置(別紙図面②地点)を航行中で、松山港外検疫錨地までの距離は約33.125キロメートルであり、午後一〇時四〇分、北緯三三度48.9分、東経一三二度31.8分、由利島灯台から一八八度、三一〇〇メートルの位置(別紙図面③地点)を航行中で、同錨地までの距離は約一五キロメートルであった。
原告美智子は、午後一〇時一〇分過ぎ、再び本件フェリーに電話を掛けたが、中道が船橋にいる田中に電話を取り次いだので、田中との間で慎吾の病状や搬送について話をした。その際、同原告は、再度、ヘリコプターを呼んで慎吾を陸上に搬送して欲しいと頼んだが、田中は、「そんなことはできない。」と言ってこれを断った。
田中は、午後一〇時四五分ころ、松山海上保安部に対し、「本船、現在釣島水道西口付近を航行中です。乗客の男性一名が喘息の発作で苦しんでおり、巡視船により輸送できませんか。」と言って巡視艇の出動を依頼し、同海上保安部が「巡視船の現場到着には約一時間かかるので、『さんふらわあ2』が松山に寄港して救急車で病院に輸送してはどうですか。」と回答すると、それ以上交渉することなく、「一時間続行すれば今治の近くまで行くので、その時点で病状に変化がなければ、今治海上保安部にお願いする。」と返答して船舶電話を切り、午後一〇時五〇分ころ、今治海上保安部に対し、「『さんふらわあ2』船内に喘息の発作で苦しんでいる乗客がいる。約一時間強で今治港外に到達するので、病人輸送をお願いする。」と巡視艇の出動依頼をし、同保安部の了解を得て今治に向かった。
10 今治海上保安部は、急患輸送のため巡視艇「いせなみ」を出動させ、今治地区事務組合消防本部に対して救急車の出動を要請した。他方、本件フェリー乗組員らは、平成元年三月九日午後零時ころから慎吾の下船準備に取りかかったが、それに先立つ同月八日午後一一時四〇分、椢原に「乗組員は船長以下必至の応急手当の治療を行ないました。上記証人いたします。」(原文)の記載がある念書を差し出して署名させ、後で他の乗客にも証人として署名させた。本件フェリーは、同月九日午前零時三一分、今治港沖防波堤青灯台より〇六五度、九五〇メートルの位置に左舷錨を投下した後、午前零時三五分、巡視艇「いせなみ」と会合し、慎吾及び椢原、安守を移乗させた。右巡視艇は、直ちに慎吾らを今治海上保安部専用棧橋に輸送し、午前零時四八分、今治地区事務組合消防本部救急車に慎吾らを引き継いだが、午前零時五二分、慎吾が既に死亡しているのが確認され、死亡推定時刻は同日午前零時二五分とされた。
以上の事実が認められ、椢原、田中及び中道の各証言のうち上記認定事実に反する部分は、右認定に照らし採用しない。
三被告の責任について
1 安全配慮義務
人の身体について時間的・場所的支配を伴う旅客運送契約にあっては、旅客運送人には、乗客の生命・身体の安全を配慮するために人的・物的施設を備えるべき義務があると解されるところ、殊に、船舶は、長時間にわたり海上を航行することから、運行に当たり、あらゆる交通機関の中で風雨・濃霧・潮流等の自然現象の影響を最も密接に受けるという海上特有の性質があり、また、いったん船内で緊急事態が発生した場合、陸上を走行する交通機関と比較して、外部との接触を取るのに時間がかかるため、旅客の身体について、他の陸上交通機関と比較しても強い時間的・場所的支配を伴う。
<書証番号略>、証人田中の証言によれば、本件フェリーは、総トン数1万2111.86トン、船員数四八名、船客定員一〇四四人、車両積載定数乗用車二〇一台、大型トラック(八トン車)九八台の旅客船兼自動車渡船であること、平成元年三月八日の運航計画は、午後七時二〇分別府港を出港し、別紙図面のとおり、伊予灘、安芸灘、備讃瀬戸及び播磨灘を通過して、翌三月九日午前六時五〇分神戸港に到着した後、午前八時二〇分大阪港に到着するというもので、その際、別府港を出てから神戸港に着くまでの一一時間三〇分は、何処にも寄港せずに航海を継続する予定であったことが認められ、本件フェリーの乗客は、一旦乗船した以上、被告との間の旅客運送契約に基づき、いわば一一時間三〇分にわたり被告の管理支配下に置かれることになるから、被告は、運航契約の付随義務たる安全配慮義務として、乗客の生命・健康に危険が及ばないように配慮し、万一、船内で事故が発生した場合には、乗客の安全を確保するべき義務を負うということができる。
右被告の安全配慮義務は、被告が航行中の船舶内において旅客を管理支配していることに由来するところ、本件フェリーの船長たる田中及び事務長たる中道はいずれも被告の被用者であり、船長は、船の最高責任者として、航行中は海員及び旅客その他の者に対して指揮命令権を含む強い権限を有し、また、事務長は、本件フェリーの接客業務全般を担当する船客部の長として、旅客全体の様子・行動を把握して、その安全を確認すべき地位にあるから、いずれも右被告の安全配慮義務の履行補助者であるということができる。
2 連絡義務違反について
(一) <書証番号略>、証人田中及び同中道の各証言によれば、被告は、昭和六二年一二月一日、社内における非常時用マニュアルとして、「事故処理基準」(<書証番号略>)を作成し、本件事故当時、これを本件フェリーに備付けていたこと、「事故処理基準」は、第二条において、右基準が適用されるべき事故の範囲を定め、その第一項には「旅客、乗組員又はその他の死亡、行方不明、重大な負傷若しくは疾病又はその他の重大な人身事故」が含まれていること、第九条では、「医療救護の連絡等」という題で「船長及び運航管理者は、船内に医療救護を必要とする事態が発生したときは、乗船者に医師がいる場合はその医師の協力を要請することとし、不在の場合は別表『医療機関連絡表』により最寄りの医師と連絡を取り、その指示のもとに適切な措置を講じなければならない。」と規定していることが認められる。
「事故処理基準」は、被告の内部規約であって対外的効力を有しないため、直ちに、これを旅客運送契約の付随義務として被告が乗客に対して負うべき安全配慮義務の内容を規定したものと解することは相当でないが、右基準は、被告が、航行中の船舶内において乗客の疾病・負傷等の事故が発生する可能性を予測したうえで、これに備え、右傷病者の死亡という最悪の結果を未然に防止する目的で定めたものであり、船の最高責任者である船長及びその管理支配下にある乗務員らとしては、船内で医療措置を必要とする乗客が生じた場合、その救護のために右基準に規定されたような措置を講ずることが社会通念上も要求されていると考えるのが相当であるから、右基準は、被告が乗客に対して負うべき安全配慮義務を個別具体的に検討するに当たり十分に斟酌されるべきであり、これによれば、被告は、本件フェリーの中で医療救護を必要とする者が発生した場合、乗船者の中に医師が不在であることが判明した時点において、「事故処理基準」記載の「医療機関連絡表」に従って最寄りの陸上医療機関と連絡を取り、その指示のもとに適切な措置を講じる義務を負うというべきである。
(二) <書証番号略>及び前記二で認定した事実によれば、慎吾は、平成元年三月八日午後九時一〇分ころ、航行中の本件フェリー内で気管支喘息の発作を起こしたこと、本件フェリー事務長の中道は、そのころ、椢原から慎吾の病名が喘息であることを聞き、慎吾が四つんばいになって苦しんでいたのを現認しており、また、一回目の船内放送により、本件フェリーに医師が乗っていない可能性があることを認識していたこと、午後九時一〇分時点における本件フェリーの位置から最も近い港は松山港であったこと、「事故処理基準」別表「医療機関連絡表」の松山の欄には、済生会病院及び城西病院の電話番号が記載されていたことが認められ、右事実に前記(一)で認定した事情を考慮すると、被告には、一回目の船内放送に答えて医師が現われないことが判明した午後九時一五分時点において、二回目以降の船内放送と平行して、「事故処理基準」記載の「医療機関連絡表」に従って、済生会病院又は城西病院に連絡を取り、医師の指示に基づき、慎吾に対して適切な措置を講じるべき義務(以下「連絡義務」という。)があったということができる。
(三) そこで、本件において、被告が連絡義務を尽くしたか否かについて検討すると、前記二で認定した事実によれば、本件フェリー事務長の中道は、午後九時三〇分ころ、被告の運行管理補助者である伊予商運に対し、船内で喘息患者が発生したことを報告するとともに、救急病院と連絡を取って措置方法を聞いて欲しいと依頼したが、自らは「事故処理基準」に記載された済生会病院又は城西病院に連絡を取ることはしなかったこと、その後、伊予商運から本件フェリーに喘息の措置について報告がなされた形跡はなく、中道の方から伊予商運に救急病院との連絡結果を問い合わせた形跡もないこと、中道は、午後九時三〇分ころ、本件フェリー船長の田中に「船内で喘息患者が発生し、四つんばいになって苦しんでいる。」と報告し、その際、田中に本件フェリーには医師が乗船していないことも報告したこと、田中は、一旦、中道に対して医療機関に連絡を取るよう指示したものの、中道の「既に連絡を取った。」という答えを聞いて放置し、中道が「事故処理基準」に従った処置をしたかどうか確かめた形跡も、その後、中道に連絡の結果を確認した形跡もないことが認められ、右のような本件フェリー船長の田中及び事務長の中道の対応は、連絡義務を懈怠したものといわざるを得ない。
(四)(1) 被告は、午後九時三〇分ころ、中道が伊予商運を通じて救急医療機関と連絡を取ったものであるから、被告に連絡義務違反はないと主張する。
<書証番号略>、証人近藤の証言に前記二で認定した事実を総合すれば、慎吾は午後九時一〇分時点で、顔面蒼白な状態で四つんばいになって苦しんでおり、もう咳はしていなかったことが認められ、慎吾は、右時点では、気管支喘息の大発作の兆候である起座呼吸の状態に陥っていたものと推認されるところ、大発作に対する根本的な治療としては、気管支拡張剤及び副腎皮質ホルモンを入れた点滴による血管確保、並びに鼻腔からの酸素吸入以外にはなく、たとえ本件フェリーに医師が乗船していたとしても、慎吾の病状は船内では全く対処できない程度のものであったと認められるから、仮に、船から連絡を受けた医師が、慎吾の具体的な症状について直接に説明を受け、かつ、慎吾が薬を使い果たしていたことを聞いていた場合であれば、医師としては、慎吾を一刻も早く陸上の医療施設に搬送するよう指示したであろうことが推認される。
他方、前記二で認定した事実によれば、中道は、午後九時三〇分ころ、伊予商運に病院への連絡を要請する際、慎吾が四つんばいになって苦しんでいたことや、慎吾の具体的な病状については一切説明せず、慎吾が薬を使い果たしていたことも報告しないで、単に、喘息発作を起こした乗客がいるので、救急病院に処置を聞いてほしい旨伝えたこと、その結果、伊予商運が国立病院四国がんセンターに連絡した時にも、婦長から「持っている薬を飲ませなさい。」程度の指示しか得られず、結局、医師の指示に従った適切な措置を取ることができなかったことが認められ、右事情によれば、中道が伊予商運に対して医療機関との連絡を依頼した一事をもって、直ちに被告が連絡義務を尽くしたということはできない。
(2) また、被告は、中道は午後一〇時ころ、医師から電話で喘息の処置方法について指示を受け、右時点において、医師の指示のうち船内でとりうる措置は、マウス・ツー・マウスの人工呼吸を含めて全部取っていたものであるから、被告は、連絡義務を尽くしたものであると主張する。
しかし、前記二で認定した事実によれば、中道は、午後一〇時ころ、船に掛かって来た電話に応対したこと、その前の午後九時三〇分ころ、原告美智子が原告陽二に対し、近藤病院に船に電話を入れてもらって欲しいと頼んでいたことが認められ、右電話は、原告らの依頼を受けた近藤病院の宿直医が本件フェリーに掛けたものである可能性が窺われるところ、その際、中道は相手の名前、相手が医師であるかどうかなどを確認せず、相手の指示も記録していなかったこと、中道は、午後九時四〇分の慎吾の容態が午後九時一〇分と比較してかなり悪化していることを認識していたにもかかわらず、相手に対し、慎吾のそれまでの病状経過や、顔色や呼吸状態などの具体的な症状を報告して、指示を求めた形跡がないことは前記二で認定したとおりであるから、中道が午後一〇時ころ医師らしき人物と電話で話をしたという一事をもって、直ちに処置方法について医師から適切な指示を受けたと言うことはできない。
また、前記二で認定した事実によれば、本件フェリーの乗務員らは、周りの乗客らの指示に従い、慎吾に対してマウス・ツー・マウスの人工呼吸及び胸骨圧迫の措置を取ったことが認められるが、午後一〇時の時点で乗務員らが既にこれらの措置を取っていたことを窺わせる事情はなく、(中道の証言中、これに副う部分は、中道のメモをまとめた<書証番号略>中に午後一〇時一〇分ころマウス・ツー・マウスの人工呼吸を開始した旨の記載があること、及び椢原の反対趣旨の証言に照らし採用できない。)、また、前掲<書証番号略>及び証人近藤の証言によれば、気管支喘息による気道閉塞や気管支の攣縮、肺野・気管支への粘液の貯溜などの場合には、マウス・ツー・マウスの人工呼吸は殆ど効果がないことが認められ、医師が気管支喘息に対する処置としてマウス・ツー・マウスの人工呼吸を指示するとは考え難いから、中道の証言のうち、電話の相手からマウス・ツー・マウスの人工呼吸をするよう指示があったという部分は採用することができず、かえって、これらの措置は、中道ら乗務員が医学的な知識を有しない周りの乗客の勧めに従って取ったものである疑いが強い。
右事情によれば、本件フェリーの乗務員らがマウス・ツー・マウスの人工呼吸等の措置を取っていたことをもって、直ちに被告に連絡義務違反がなかったということはできない。
(3) 被告は、中道が田中に一回目の報告を行なった午後九時三〇分時点では、田中も中道も未だ慎吾の病状が悪いとは認識していなかったと主張するが、中道の証言及び前記二で認定した事実によれば、中道は、一回目の報告を行なった時点において、既に大変な事態が発生したという認識を有していたことが認められるから、被告の右主張は採用することができない。
3 搬送義務違反について
(一) <書証番号略>によれば、本件フェリーは、船舶安全法施行規則第一条にいう沿海区域(北海道、本州、四国、九州、樺太の島嶼から二〇海里の区域)を航行する客船であることが認められるが、沿海区域を航行する客船は、船員法施行規則八二条によれば医師の乗り組みが義務付けられた船舶には該当せず、また、医薬品その他の衛生用品についても、船員法施行規則五三条一項四号により、丁種衛生用品(最も簡易なもの)の備付けで足り、法律上備付けが義務づけられている内服薬は、アスピリン剤、臭化ブチルスコボラミン製剤、健胃剤の三種類、医療衛生用具は、体温計、雑用鋏、ピンセット、氷のう、氷枕の五種類に過ぎず(同条第五号表の二)、喘息発作に対する医薬品等の備付けは法律上義務づけられていない。このように、沿海区域を航行する客船について、法律上、医師の乗船が義務付けられておらず、備付けの医薬品等についても簡易な丁種衛生用品で足りるとする趣旨は、沿海区域を航行する船舶が海岸から二〇海里以内という陸地に近接した海域を航行しているため、航行中に急病人や負傷者が発生し、医療機関による救護措置が緊急に必要となる場合であっても、各地の海上保安部に連絡して巡視艇の出動要請をしたり、航路を変更して最寄りの港に寄港するなどの方法により、右傷病者を陸上の医療機関に搬送するか、船内で陸上からの支援・救援を受けられるよう、何らかの措置を取ることが比較的容易なためであると解される。
右事情を考慮すれば、被告は、運送契約の付随義務である具体的な安全配慮義務として、喘息発作に対する応急医薬品や酸素供給機器の備付け義務があったとは解されないが、航行中の本件フェリー内で医療救護を必要とする者が発生し、船内で救護措置を取ることが困難である場合には、当該病人を陸上の医療機関に搬送するか、船内で陸上からの救援・支援を受けられるよう、何らかの措置を取るべき義務は負うということができる。
(二) 前掲<書証番号略>に前記二で認定した事実を総合すると、慎吾は、平成元年三月八日午後九時一〇分ころ、伊予灘を航行中の本件フェリーの中で気管支喘息重積発作を起こしたこと、三回にわたる船内放送の結果、午後九時三〇分ころまでには、本件フェリーに医師が乗船していないことが判明したこと、慎吾の病状は次第に悪化したが、船内には喘息薬も酸素吸入器もなく、また、慎吾の病状が薬を飲ませることもできない状態であったため、船内で救護措置を施すことはできなかったこと、田中は、中道から午後九時三〇分ころ、船内で喘息患者が発生したという報告を受け、午後九時四〇分ころには、病状悪化の報告を受けるとともに、海上保安庁に巡視艇の出動要請をして欲しいと依頼されたこと、田中は、午後一〇時一〇分ころ、自ら慎吾の容態を確認して、同人が素人目にも危篤状態にあると判断していたこと、本件フェリーは、午後一〇時一〇分、別紙図面②地点を航行中であり、松山港から約三四キロメートルの距離にあったことが認められ、右事実に前記(一)の事情を総合すると、被告には、本件フェリーに医師が乗船していないことが判明した午後九時三〇分ころ以降は、慎吾を陸上の医療機関に搬送するか、または、船内で陸上からの救護・支援を得られるよう、何らかの措置を取るべき義務が発生していたが、右義務は、慎吾の病状が悪化するに従って限定され、遅くとも、慎吾が素人目にも危篤状態に陥り、同人を救命するためには一刻も早く医療機関による救護措置が必要であることが確認された午後一〇時一〇分時点においては、慎吾を陸上に搬送して同人に医療機関による救護措置を取るため、当時の航行位置から約三四キロメートルという近距離にある松山海上保安部に巡視艇の出動要請をするとともに、本件フェリーの航路を変更して、松山港外方向に航行させるべき義務(以下「搬送義務」という。)を負うに至ったということができる。
(三) そこで、被告に搬送義務違反があるかどうかについて検討すると、<書証番号略>に前記二で認定した事実を総合すれば、田中は、午後九時四〇分、中道から二回目の報告とともに巡視艇の出動要請を求められた際、一旦「わかった。」と返答しながら、実際には巡視艇の出動要請をせず、午後一〇時一〇分まで、慎吾の容態を自ら確認しないままで予定通り航行を続けたこと、田中は、午後一〇時一〇分、慎吾の容態を確認して、同人が素人目にも危篤状態にあると判断したが、それから約三五分を経過した午後一〇時四五分になるまで、松山海上保安部に巡視艇の出動要請をしなかったこと、その際、田中は、同海上保安部から、巡視艇の現場到着には一時間かかるので、本件フェリーが松山に寄港してはどうかと言われると、それ以上、同海上保安部と交渉することなく通信を打ち切り、午後一〇時五〇分、今治海上保安部に対して巡視艇の出動要請をしたことが認められる。
(四) 被告は、田中が午後一〇時一〇分に慎吾の病状を確認してから巡視艇の出動要請をするまでに三五分を要したことには、次のとおり合理的な理由があるから、被告には搬送義務違反がないと主張するので、以下検討する。
(1) 被告は、まず、田中が一等航海士との間で寄港地に関する検討を開始したところ、原告美智子との電話の応対に一〇分間忙殺されたと主張する。
午後一〇時一〇分ころ、中道が原告美智子からの電話を田中に取次ぎ、田中が同原告と電話で話したこと、その際、同原告が田中に松山寄港及びヘリコプターによる救援を依頼したが、いずれも田中に断られたことは前記二認定のとおりであるが、当時、慎吾が素人目から見ても危篤状態に陥り、一刻を争う状態であったことは前記認定のとおりであるから、仮に、田中が航海士と寄港地に関する検討をしていたのであれば、同原告にその旨を説明して電話を切るか、電話を再び中道に転送すれば良いことであり、同原告からの電話に応対したため、海上保安部への出動要請が一〇分間遅れたという被告の主張には合理性がない。
(2) 次に、被告は、田中及び一等航海士らが、まず松山観光港及び三津浜外港埠頭への寄港を検討し、これらを断念した後、松山港外検疫錨地での巡視艇への移乗を検討したが、その際、本件フェリーが伊予灘ナンバー1ブイを通過した後の風が、風力五、波高二メートルという強風であり、松山港外の風が経験上午後一〇時前後に最強となることから、当時、松山港外には、風力五、波高二メートルの強風が吹いていると推測されていたところ、このような状況下で、田中が、乗組員の転落時における救助策等を提案して一等航海士らを説得し、右錨地での移乗を決定するまでには、最低でも一五分程度の検討を要したと主張し、田中の証言及び<書証番号略>には、右主張に副う証言及び供述部分が存在する。
しかし、田中および一等航海士が松山観光港及び三津浜外港埠頭への寄港を断念した原因は、松山観光港については、水深が本件フェリーの吃水6.7メートルより浅く、岸壁が本件フェリーの全長一八六メートルより短いことから、本件フェリーの着岸が不可能なためであり、三津浜外港埠頭については、田中に入港経験がなく不案内なため、入港に時間がかかり過ぎることであるが、船長としての経験が豊かな田中が、右事情を理由として、前記二港への寄港を断念するため時間を要したと解するのは合理的でない。
また、松山港外の風についていえば、午後一〇時一〇分、本件フェリーは別紙図面②地点を航行中であり、松山港外検疫錨地内の停泊予定地からの距離は約33.125キロメートルであったこと、本件フェリーの当時の巡航速度が二一ノットであったことは前記二で認定したとおりであり、仮に、本件フェリーが午後一〇時一〇分ころから松山港外に向かった場合、計算上、同船が右錨地に到着する時間は午後一一時前後と考えられるから、田中らが松山港外での移乗を検討する際に考慮する必要があるのは、右錨地付近の午後一〇時前後の風でなく午後一一時前後の風である筈のところ、<書証番号略>によれば、本件フェリー航路上の風は、同船が午後八時五一分、伊予灘西端の伊予灘ナンバー1ブイを通過した時点で風向北西、風力三であり、午後九時三三分、伊予灘のほぼ中央である八島灯台を通過してからは風向北西、風力五に強まっていたが、午後一〇時五七分、伊予灘東端の釣島灯台を通過したころには風向北東、風力四に弱まっていたこと、別紙図面②地点は伊予灘の中央部付近に位置し、周りには風を遮る島陰もないこと、松山港外検疫錨地は伊予灘のほぼ東端部に位置するが、松山港からの距離は約二海里(一海里=一八五二メートル)であり、釣島灯台と比較しても、さらに陸地寄りの位置にあるうえ、北側の與居島が北東の風を遮っていること、松山海上保安部は、平成元年三月八日から九日の天候について、巡視艇の出動には影響がないと考えていたことが認められ、右事情に、田中が、当時、松山海上保安部又は松山港沖を航行中の船舶に対して松山港外の天候を問い合わせた形跡がないことを考慮すれば、午後一一時前後における右錨地付近の風が午後一〇時一〇分時点における別紙図面②地点の風と同視できるか、より強いものであると推認することはできず、被告の、当時松山港外検疫錨地付近に風力五、波高二メートルの強風が吹いていたと予測されるため、右錨地での移乗を決定するまでの検討に時間を要したとする主張は、その前提を欠くものであって採用することができない。
被告は、田中の判断が正しいことの根拠として、<書証番号略>(「フェリーくるしま」の航海日誌)を援用し、これによれば、平成元年三月八日午後八時ころ松山港外與居島付近の指定錨地で風向北、風力四の風が吹いていたこと、同船の同月九日午前零時ころの航行位置における風が風力四であることが認められるが、他方、同船は、午前零時ころ、小水無瀬灯台を東から西へ通過して、風が一番強まる伊予灘中心部付近を航行していたことが認められるから、午前零時の風が錨地付近の風力を推測する根拠ということはできず、午後八時ころの風も、與居島と検疫錨地の地理条件の違い、時間的な隔たり等の事情を考慮すると、直ちにこれが午後一一時ころの松山港外検疫錨地付近の風力を推定させるものとは認められない。
(3) 右によれば、田中が慎吾の病状を確認し、素人目にも危篤状態にあると認識した午後一〇時一〇分時点から、松山海上保安部に巡視艇の出動要請をするまで約三五分が経過していることについては合理的な理由がないため、田中には、本件フェリー船長として、被告が乗客に対して負う搬送義務に違反する行為があったものと言わざるをえない。
(五) 田中が被告の安全配慮義務の履行補助者に当たることは、前記1のとおりであり、右によれば、その余について考慮するまでもなく、被告は、本件運送契約の付随義務たる搬送義務に違反したものということができる。
4 因果関係について
(一) 被告には、午後一〇時一〇分時点、松山海上保安部に巡視艇の出動要請をして松山港外検疫錨地に向かうべき義務があるにもかかわらず、それから約三五分にわたり搬送措置を取らなかったという搬送義務違反があり、仮に、被告が午後一〇時一〇分時点で搬送義務を尽くしていた場合、慎吾が松山港埠頭で救急車に引き渡される時間は、午後一一時三四分ころとなるのは後記認定のとおりであり、今治海上保安部の巡視艇が実際に今治港埠頭で慎吾を救急車に引渡した時刻(翌零時四八分)と比較して、約一時間二〇分早く、慎吾を陸上に搬送することが可能であったものと推認されるところ、被告には、慎吾が午後九時一〇分に気管支喘息発作を起こした後、遅滞なく、医師の指示に基づく的確な措置を取ることができなかったという連絡義務違反もあり、仮に、被告が午後九時一五分以降、連絡義務を尽くし、自ら前記「事故処理基準」記載の病院に連絡を取り、医師に慎吾の病状を説明していれば、医師としては、直ちに陸上への搬送を指示したと予測されるから、本件では、連絡義務違反により、被告が慎吾を陸上に搬送するための措置を取りうる時期がさらに約一時間遅れたものということができる。
他方、<書証番号略>によれば、慎吾の直接死因は気管支喘息重積発作であり、死亡推定時刻は平成元年三月九日〇時二五分であることが認められ、証人近藤の証言には、一般論として、慎吾が死亡の約一時間前である同月八日午後一一時三〇分ころまでに救急医療を受けていれば命が助かった可能性があるとする部分があるが、同証言は、右午後一一時三〇分以降における慎吾の救命の可能性を否定する趣旨のものではないし、気管支喘息発症後の病状進行は、治療の過程、各人の体質、体格、年齢により異なり、本件では、慎吾の発作の状態が不明であるため、大発作発症から何時間以内に医療措置を取れば助かったかということについては、一概には答えられないという趣旨の部分もあり、慎吾が何時までに救急医療を受ければ救命の可能性があったかについては、ある程度幅を持った解釈を要するといわざるをえない。
右事情によれば、田中や中道が前記連絡義務及び搬送義務を尽くしていれば、慎吾の救命の可能性が高かったものと認められるから、右義務違反と慎吾の死亡の間には、因果関係があるということができる。
(二) 被告は、田中が、午後一〇時一〇分、松山海上保安部に巡視艇の出動要請をするとともに、松山港外検疫錨地に向かった場合であっても、慎吾が救急医療措置を受けることは不可能であり、被告の前記義務違反と慎吾の死亡との間には因果関係がないと主張するので、以下検討する。
(1) <書証番号略>に前記二で認定した事実を総合すれば、別紙図面②地点から松山港外検疫錨地における停泊予定地までの距離は、約33.125キロメートル(約17.8海里)であり、当時本件フェリーの巡航速度は二一ノットであったこと、右速度で航行する大型船舶が停船するには、最後の二海里の航行に常に一四分を要することが認められ、計算上、本件フェリーが②地点から停泊予定地の二海里前までの15.8海里を二一ノットで航行するには約四五分を要することから、本件フェリーが②地点から停泊予定地まで航行するための所要時間は約五九分であり、本件フェリーが午後一〇時一〇分から松山に向かった場合、午後一一時九分ころには松山港外検疫錨地の停泊予定地に到着できるものと推認される。
被告は、午後一〇時一〇分当時、松山港外には風力五、波高二メートルの強風が吹いていたものと推定され、このような気象、海象の下で田中らが松山港外での移乗を決定するには、少なくとも一五分の検討を要するため、本件フェリーが松山港方面に向かい始めるのは、早くとも午後一〇時二五分となると主張するが、<書証番号略>によれば、本件フェリーは午後一〇時一〇分から午後一〇時一九分までの間、予定航路をやや北東方向に外れており、その間の航路の延長線が概ね松山方向を示していること、同船は、午後一〇時一九分、再び航路を北西方向に変更し、午後一〇時二五分からは予定航路上に復帰していることが認められ、右事実からすると、本件フェリーは一時松山港に向けて航行したことが窺われ、当時、松山港外検疫錨地付近に風力五、波高二メートルの強風が吹いていたことが予測されたという田中の証言及び<書証番号略>の供述部分を採用することができず、他に右事情を窺わせる証拠がないことは前記3(四)(2)のとおりであるから、被告の右主張は、前提を欠くものであって採用することができない。
(2) 他方、<書証番号略>、証人田中の証言及び弁論の全趣旨によれば、巡視艇は松山港から松山港外検疫錨地までを約二〇分で航行すること、松山海上保安部は緊急時には二〇分で巡視艇が出動できる体制を組んでいることが認められ、仮に、田中が午後一〇時一〇分松山海上保安部に巡視艇出動を要請した場合、巡視艇は午後一〇時五〇分ころには松山港外検疫錨地に到着しており、本件フェリーが午後一一時九分ころ錨地に到着した時点で同船と会合することが可能であるものと推認される。
被告は、巡視艇が現場に到着するまでには一時間を要するから、本件フェリーが錨地に到着した時点で巡視艇と会合することはできないと主張し、<書証番号略>及び証人田中の証言にはこれに副う部分がある。しかし、<書証番号略>によれば、松山海上保安部は、午後一〇時四五分、本件フェリーから巡視艇の出動要請を受けた際、田中の「現在釣島水道西口航行中です。」という通信を受けて、現場到着には一時間かかると返答したことが認められ、右返答の趣旨は、巡視艇が出動態勢を整えて、松山港から当時本件フェリーが航行中の釣島水道西口まで航行するのに一時間を要するというものであり、松山港から約二海里の位置にある松山港外検疫錨地に到着するまでに一時間を要するという趣旨ではないと解されるから、この点に関する被告の主張は採用できない。
(3) <書証番号略>によれば、本件フェリー乗組員らが平成元年三月九日午前零時三一分から今治港沖で慎吾を巡視艇に移乗させた際、投錨から移乗完了までに要した時間は約四分であったこと、同日午前零時の今治港付近の風は風向北西、風力二であったことが認められるところ、午後一一時五分ころにおける松山港外検疫錨地の風力を直接確定する証拠はないが、右錨地の位置、当時の釣島灯台付近の風力、午前零時の松山港内の風力、松山海上保安部が当時の天候につき巡視艇の出動に影響がないと判断していたことなど前記3(四)(2)の事情によれば、午後一一時前後において、右錨地付近に巡視艇への移乗に影響を及ぼす程の強風が吹いていたことを窺わせる事情もないため、巡視艇への移乗に必要な時間は、実際に今治港外で移乗に必要とした時間と同様、四分から五分程度であると推認することができる。
被告は、当時の風力五、波高二メートルの強風波浪下で移乗を敢行するには、船上の作業に慣れた海上保安庁職員及び本件フェリー乗組員によっても約二〇分を要すると主張するが、当時、右錨地付近に風力五、波高二メートルの強風が吹いていたとする田中の証言及び<書証番号略>の供述部分を採用することができず、他に右事情を窺わせるに足りる証拠もないことは前記3(四)(2)のとおりであるから、この点に関する被告の主張は前提を欠くものであり採用できない。
(4) 巡視艇が松山港外検疫錨地から松山港埠頭に寄港するまでに約二〇分を要するのは前記(2)のとおりであり、前記(1)ないし(3)の事情を総合すると、本件フェリーが午後一〇時一〇分から松山港外に向かった場合、巡視艇が松山港埠頭で慎吾を救急車に引渡し、慎吾が救急医療を受けることができるのは、午後一一時三四分ころである(ただし、被告が前記認定の連絡義務を尽くしていれば、右救急医療を受ける時間はもっと早くなる可能性が大きい。)と推定することができる。
被告の主張は、松山港岸壁から救急病院への輸送に二五分が必要であるから、慎吾が救急病院で医療を受けられる時間も、それだけ遅くなるという趣旨にも解されるところ、<書証番号略>及び証人近藤の証言によれば、慎吾の喘息は、病状が相当悪化した後でも、純酸素を鼻腔から入れる方法による酸素吸入及び副腎皮質ホルモン等の点滴注射により、救命が可能であることが認められ、田中らが、前記連絡義務を尽くしておれば、慎吾が巡視艇ないし救急車に引き渡された時点で直ちに同人に対する早急な応急救命措置が取られ得たものと推認されるから、被告の右主張は採用できない。
四損害
1 逸失利益
前記二で認定した事実によれば、慎吾は、本件事故当時二一歳の男子で、日本文理大学を中退した直後であったが、その後就労が予定されていたことが認められ、慎吾は、本件事故がなければ六七歳まで四六年間稼働することが可能であったと認められるところ、同人の年齢に対応する賃金センサス平成元年第一巻第一表産業計全労働者年齢別平均給与額の年相当額は二七七万九二〇〇円であり、右収入額から五〇パーセントの生活費控除を行ない、死亡時の年齢に対応する新ホフマン係数23.5337を乗じて、慎吾の逸失利益を算定すると三二七〇万二四二九円(一円未満切捨て、以下の計算につき同じ)となる。
2,779,200×23.5337×0.5=32,702,429
2 慰謝料
(一) 慎吾の慰謝料
前記認定事実によれば、慎吾は、本件フェリーの中で気管支喘息重積発作を起こし、呼吸困難の状態に陥ったが、以後、約三時間にわたり、医師の指示に基づく適切な救護措置を受けることなく、結局、本件フェリー内において死亡に至ったものであり、その間の苦悶は著しいものであったと認められるところ、本件にあらわれた諸般の事情を考慮すると、慎吾が本件事故により被った精神的苦痛に対する慰謝料は一八〇〇万円が相当である。
(二) 原告ら固有の慰謝料
原告らと被告との間には、契約関係ないしこれに準ずる法律関係は存在しないので、原告らは、債務不履行を理由とする固有の慰謝料請求権を取得することはできない。
五過失相殺
<書証番号略>に前記二で認定した事実を総合すれば、慎吾は、昭和六一年秋ころ気管支喘息に罹患し、昭和六三年一〇月ころからは大分市の岡病院及び尼崎市の近藤病院で治療を受けていたこと、慎吾の気管支喘息は、酸素吸入や副腎皮質ホルモン投与の治療が行なわれることもある重症(中等症以上)であり、殊に同年一一月以降は月二回以上の頻度で著名・重積な発作を起こしていたこと、慎吾は、本件事故の四日前である平成元年三月四日にも、近藤病院で気管支喘息の診察・治療を受けており、当時の症状は、三日前から起座呼吸の状態にあり、治療として副腎皮質ホルモンの投与を受けるなど、比較的重症であったところ、このような病状の下で、自ら神戸―大分間をフェリー及び小型トラックで往復する計画を立てたこと、慎吾は、同月七日フェリーで神戸港から大分港に向かった時にも、同月八日朝下宿で引越しをした時にも、その後、小型トラックを運転して別府港に向かった時にも咳込み、その都度、同月四日に近藤病院で貰った気管支拡張剤ベロテックエアゾルを使用して咳を止めていたこと、その結果、慎吾が、同月八日午後九時一〇分、伊予灘を航行中の本件フェリーの中で気管支喘息の発作を起こした時には、右ベロテックエアゾルは使い果たされていたこと、当時、慎吾は他に薬を携帯していなかったことが認められる。
これによれば、慎吾は、昭和六三年一一月以降、自己の病状が悪化していたという自覚がなく、殊に、本件事故の一週間前から三日間、起座呼吸の状態が続くほどの重い発作を起こしたばかりの状態で、神戸港から大分港まで一〇時間以上寄港しないで航行するフェリーに乗船し、自ら小型トラックを運転して引越しをするという、身体に多大な負担が掛かる行動を取り、その際、咳込んではベロテックエアゾルで咳を止めるという状態でありながら、自己の体調に留意して陸路を選択することを検討したり、薬の残量を確かめたりすることなく、帰路も長時間寄港しないで航行する本件フェリーに乗船し、その結果、船内で重積発作を起こしたものであって、本件事故の主要な原因は、慎吾が当時の体調に留意せず、また、途中で喘息発作を起こす可能性を考慮しないで、帰路としてフェリーを選択するという、無謀ともいえる行動を取ったことにあったと言わざるをえない(仮に、慎吾が本件フェリー乗船に当たり、中道ら乗務員に当時の病状を告げていたならば、被告としては、本件フェリー内で喘息発作に対する対処の方法がないことから、本件運送契約を締結せず、慎吾の乗船を断ったであろうことが推認される。)。
そこで、前記認定の経緯に加え、慎吾が当時成人であったことなど諸般の事情を斟酌すると、過失相殺として前記認定の損害額から八割を減ずるのが相当であるから、過失相殺後の慎吾の損害は、前記四1、2の合計五〇七〇万二四二九円から八割を減じた一〇一四万〇四八五円ということになる。
六弁護士費用
本件事案の性質、審理の経過及び認容額その他諸般の事情を斟酌すると、本件事故によって生じた損害として賠償を求めうる弁護士費用は一〇〇万円とするのが相当である。
七右によれば、慎吾の被告に対する右損害賠償請求債権は計一一一四万〇四八五円となるところ、原告らが、これを相続により各二分の一の割合で承継取得したことは明らかであるから、原告らは、被告に対し、それぞれ前記の二分の一である五五七万〇二四二円及びこれに対する本件事故の後である平成元年六月四日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めることができる。
八結論
以上の次第で、原告らの本訴請求は、右に認定した限度で理由があるから認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官竹中省吾 裁判官一谷好文 裁判官阿多麻子)